昨夜、教育雑誌を読んでいた。
私は、月に数冊、教育雑誌を定期購読している。
そこで改めて思ったことがあった。
今日はそのことについて書いてみる。
教師がもつ技術
以前、こんな記事を書いた。
taka-ichi-sensei.hatenablog.com
このときは、私が考える「教師の技術」について、あまり語れなかったので改めてここで。
例えば、集団の子どもたちを一瞬で静かにさせること。
これは、教師ならではの「技術」の1つであると思う。
大声で「静かにしなさい!」と言うだけなら、誰にでもできる。
むしろ、子どもにもできる。
それ以外の方法をいくつも知っていて、実際に「静かにさせる」ことができるのは、教師ならではの「技術」だと、私は思う。
例えば、どんな方法があるのかというと、ネットで調べればすぐに出てくるのだ。笑
ちょうど、関連する方法がいくつか紹介されていた。
「静かにさせる」こと以外にも、多くの場面で「技術」を用いることができると思う。
「整列させる」「話を聞かせる」「声を出させる」などなど…。
それだけでいいのか
ここからが本題である。
昨夜読んでいた教育雑誌にも、いくつかの「技術」が紹介されていた。
たしかにその手法を用いれば、直接的な言葉(「静かにしなさい」など)を発さなくとも、統率できるであろう。
しかし、である。
例えば、「静かにさせる」ための手法。
ざわざわしているときに、教師がそれらの様々な「技術」で静かにさせる。
その「技術」に任せきりで1年間が過ぎてしまったら…?
「静かにする」ということができる子どもたちに育っているのであろうか。
教師が用いる静かにさせるための「技術」で、静かになっているだけではないのか。
では、担任が変わったらどうであろう。
そういった「技術」を知らない教師だったら?
「静かにしなさい」という指導ばかりでは、子どもたちも反発を起こすかもしれない。
その教師の「指導力」の問題であろうか?
(もしかしたら、それもあるかもしれないが)
これまでは、ざわざわしていても、「技術」ある教師がすぐに静かにさせていた。
言わば、「教師のいうこと」だけを聞いていればよかった。
静かにすべき場面では、教師が様々な方法でその場を静めてくれていたのだ。
教師の指示を待つだけで済む、指示待ち人間であればよかった。
自分たちで考える機会がなかった。
静かにすべき場面で、最初から静かに待つという耐性が身についていないのだ。
これでいいはずがない。
「技術」の背景が見えない
だいぶ、極論を述べたと思う。
誤解のないように言っておく。
私は、そういった「技術」をもつことは必要だと思う。
それが1つでも多く知っていれば知っているだけ良いと思う。
そして、その「技術」を実際に現場で用いるべきだと思う。
ただ、それだけに頼ってはマズイと思う。
教育雑誌で紹介されているようなものは、そのほとんどが有名な「実践家」の先生方の手法だ。
しかし、その先生方には、各々の教育に対しての思いや考え、軸がある。
(最近では、私は「哲学」と表現している)
紹介されている「技術」は、その先生方が行う教育のなかの1つのパーツでしかないのだ。
それらの「背景」というものは、紙面からは伝わってこない。
しかし、そのパーツに過ぎない「技術」をあたかも「すべて」のように思い込んで、それだけを実践していく。
そういった「技術」を寄せ集めて、それらの「技術」だけを用いて教育していく。
が、これが結構うまくいく。
しかし、どこかで必ずボロがでる。
その1つの例が、先に述べた「指示待ち人間を育てる」といったことだ。
以前の自分
だいぶ他人事のように書いてきたが、以前の自分がこれに近い状態であったのだ。
自戒の意味を込めて書いている。
昨日読んでいた雑誌。
今でも継続して読んでいる。
大変勉強になる。
「そういう技術もあるのか!」と学ぶことも多い。
そして実践することもあるだろう。
しかし、乱用はしない。
それだけに頼らないようにする、私も子どもたちも。
そういう風に考えられるようになっただけでも、少し成長しているんだなと思う。