こちらの本を読み、学びをアウトプット。
『日記に入れる赤ペンはねらいをもってまとをしぼる』
著書の中で、とある日記が紹介されている。
一年生の男の子が書いた日記である。
七月二十七日のことでした。ぼくわ、となりのおばちゃんとプールに行きました。ふかいプールわ、ちょっとしか足をつけられませんでした。しばらくするとそらがくらくなって雨がふってきました。おかあさんわ、プールからあがってぼくだけおよいでいました。おかあさんがかえるよといったから、バスでかえりました。いえにかえって友だちとあそびました。今日わ、とてもいい日でした。
これを読んで…
もし“指導”を入れるとしたら、どのような点に気づくだろうか。
一つや二つは思い浮かぶと思う。
教師はこれらの気になることを、一度に、しかも幅広く直してしまいたい衝動にかられてしまうものである。ところが、子どもにとってみてはどうであろうか。いろいろ書かれたことに対して、ただうっとうしくなるだけで、何も得るものがなくなってしまうにちがいない。
著者のこの考え方に、私も同感である。
先の日記に、たくさんの赤ペンが入り…
しかもその全てが“指導”の赤ペンであれば、嫌になる。
私であれば、この日記の書かれた状況によって赤ペンの種類が変わると思う。
- どこで書かれたものか。学校か、家での宿題か。
- いつ書かれたものか。1学期か、2学期か、3学期か。
- 書いた子はどのような子か。普段からよく書く子か、書かない子か。
仮に、これが「1学期当初の宿題」であれば…
まずは「文章を書いた」という事実を褒めたい。
しかも、それを「家庭学習」としてである。
学習習慣の定着にも大切な時期なので、「家で文章を書いてきた」ということだけでいい。
多少の誤字には目をつむる。
指導のチャンスは、他にも必ずある。
この子は、宿題をやってきた。
そして、一定量の文章を書いてきた。
それを褒める。
ただ、超間接的な“指導”を入れることはある。
実際によく使う手法だが…
「私は、この日記を読んで、今すぐプールに入りたくなりました」
などと赤ペンを入れる。
別にあからさまに「は」を大きく書いたりはしないが…笑
これに気づかない場合もあるだろうし、そもそも「は」の使い方を知らないかもしれないし。
別にいい。
指導のチャンスは、他の場面で。
このように、この日記を書いた状況で、赤ペンを入れるねらいは変わってくると思う。
「は」の使い方を授業で教えたその日に書いてきた日記であれば、その点のみ訂正を加えるかもしれない。
ただ、基本は褒めの赤ペンを入れたい。
その子が先生の赤ペンを見て、にっこりしている表情が好きだ。
宿題に入れる赤ペンって、教師とその子だけの、いわば交換日記みたいなものだと思っている。
どんなねらいをもって赤ペンを入れるか…
とても大切な観点だと思う。