先日、とある授業を見る機会があった。
そこで、先生がある質問をして、子どもたちが挙手をする場面。
その瞬間、私は違和感を感じた。
子どもたちが黙って手を挙げていた。
…ん?なんだこの感じは…。
その後、再び子どもたちが挙手をする瞬間に出会う。
やはり…黙って手を挙げている。
強い違和感を覚えた。
また別の話。
これは我がクラスのことだが、子どもたちは朝、教室に入るときは必ず挨拶をしている。
声の大小の違いはあるが…(ほとんどは教室に響く声で挨拶をしている)
ある日、1人が黙って入室してきた。
声が小さいのではない、黙って入ってきたのだ。
そこに非常に強い違和感を感じた。
私の中で、ものすごく引っかかった。
私の感覚。
挙手するときは「はい」と言う。
朝一番で教室に入室するときは「おはようございます」と言う。
このことは、今となっては逐一指導しているわけではない。
(年度当初には指導したり教えたりしていた)
それらは“当たり前”のこととなっている。
それが“普通”の光景で、そうすることに何の違和感も抱かない。
だからこそ、そうでない時に強い違和感を覚える。
「はい」と言いながら挙手をする・しないのどちらが良いとか悪いとか、そういう話ではない。
ただ、私はそういう感覚(価値観)をもっていて、それがクラスの子にもやはり浸透していて…
今回、そうでない状況を見た時に強い違和感を覚えたから、
改めてこういうことを考える機会となった。
これは余談だが…
入室するときに挨拶をしないで入ってきた子…
この子は普段は挨拶をする。
その日は黙って入室してきたということは…
何かあるんだろう。
そういうことを考える。
いつもよりも注意して様子を見たり、声をかけたりできる。
思い返せば、この子たちと出会った4月は…
これらは“当たり前”ではなかった。
黙って手を挙げていたし、黙って入室してくる子がいた。
もう一度言うが、それらの良し悪しを言いたいのではない。
こういう風に子どもが変容してくるというのは…
ある意味、「担任」の色に染まってくるとも言えるのだと思った。