私の家の「勉強部屋」には、本棚がある。
(「書斎」と表現すると、妻に叱られるのだ。「あなただけの部屋ではない!」と。)
つい先日も、本が収まりきらなくなったので、新たなものを購入した。
私は、子どもの頃は、決して本が好きだったわけではない。
大人になってからも、どちらかといえば、あまり本を読まない人間であった。
しかし気付けば、本棚には多くの本(主に教育書関連)が並べられている。
その中に、1冊のノートがある。
このノートは私にとって、「宝」のノートである。
教員になって3〜4年目の頃、私が最も尊敬する先生と同じ学年を組んだ。
その方の授業は、素晴らしかった。
レベルが違っていた。
その先生に一歩でも近づきたかった。
私のクラスの授業が専科のときは、必ずその先生のクラスへ行き、授業を参観させていただいた。
あまり大きな声では言えないが、私のクラスの子が自習や課題をしているときでさえも、「30秒だけでも」時間を捻出しては、その先生の授業をのぞきに行った。
(隣の教室であったので、すぐに行き来できた)
そして、その先生の発した言葉や板書、仕草、授業の展開など、メモできるものはとにかくすべてメモをした。
それが私にとっての「宝」のノートなのだ。
今日、久しぶりにそのノートを見返した。
立つとき、座るとき、音に気を配るんです。
漢字は多少かっこ悪くても大丈夫。
とめ、はね、はらいが出来ていれば良い。
もっと声出るよ!
いま、誰の声が一番聞こえた?
絶対に消しゴムは使わない!
間違えだと思っても、間違えじゃないかもしれない!
あとで使えるかも。
消してる時間がもったいない。
1秒がもったいない!
勉強というのは、間違いをとっておくこと!
丁寧に責任をもって渡す!
物を配るというのは、そういうこと!
遊びとは、友達のことが考えられること。
誰かがいじめられてるのを見て見ぬふりをするのは、卑怯だ!!
読み返していて、思った。
私の教育の原点は、きっと、ここだ。
この先生への憧れだ。
そこから猛烈に勉強をしたと思う。
自分の教育者としての基礎となっている。
特に、授業に関しては。
その先生が、離任するとき、私にこう言った。
「あと、3〜4年もすれば、きっと僕なんかを追い抜いてしまうだろうなぁ」
あれから、3年が過ぎている。
追い抜くどころか、追いついてもいない。
まだまだ遠い。
この3年間、自分は怠けすぎていた。
環境の変化もあったが、そんなことは関係ない。
この秋、私はまた新たな環境に身を置こうとしている。
新たに尊敬する先生と出会った。
必死に学びたい。
もっともっと「教師としての力」を高めていきたい。
数年後、いや、もしかしたら数十年後。
自信をもって「追い抜きました」と言えるようになりたい。
いつまでも学び続ける教師でありたい。