最笑はGOOD!〜全力で前に突き進む〜

小学校教師であり、二児の父でもあります。日々のちょっとしたことを気ままに書いていきます。「最」高の「笑」顔を目指して!最笑はGOOD!(さいしょはグー)

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【流れていく】授業で子どもに力はつくか

 学校というところは、毎日毎日授業がある。


「45分」の授業が次から次へとやってくる。


この授業を通して、子どもたちは「力」をつけていく。


この授業を通して、教師は子どもに「力」をつけていく。


私は、授業とはこうあるべきだと考えている。

 

 


けれども、この授業というのは、そう単純ではない。


「45分」ポッキリで指導が完結するものは、あまりない。


つまり、その多くは単元で構成されている。


例えば、算数なら「円の面積」という単元がある。


その単元は10時間扱いになっている。


つまり、45分×10コマで指導を終えなければならない。


とある国語の物語教材は8時間扱い。


45分×8コマで終えなければならない。


こういう単元がいくつもある。


今月中には、算数では○○と◇◇の単元を終えて…


国語では●●と◆◆の単元を終えて…


今学期中には…


今年度中には…


というように、ある意味での「ノルマ」が課せられている。

 

 


「ノルマ」という表現は、なんとも皮肉なものだが、現状、そう捉えるのが自然なように感じてしまう。


つまり、多くの授業は、「45分間でなんとかまとめまで…」とか「この単元は8時間で終えなければ…」といったことに追われている。


それが行き過ぎると、授業を形式的に流すことが「目的」になっている気がしてならないのだ。


研究授業なんかが、まさにその典型。


事前に膨大な時間を費やして準備をする。


良くも悪くも、教師の思いはその授業にグッと込められる。


そうなると、なんとか計画した通りに「流す」授業をきちっと遂行しなければならなくなる。
(そういった思いに駆られる)

 

 

 


こうなってくると、「子どもに力をつける」ということは、夢物語で終わるのだ。


例えば、かけ算九九が定着していない3年生がいるとする。

 

 


その子にとって、「わり算」という単元は、苦痛でしかない。


九九ができない子に、わり算ができるはずがない。


もちろん、個別には対応する。


しかし、45分という制限がある。


その中で、「九九を定着させて」「わり算もできるようにさせる」というのは、並大抵のものではない。


じゃあ、授業時間外に補習で行う?


それも手だが、その子が補習に耐えうる「力」があればの話だ。


現実は、厳しい。

 

 


「かけ算九九」を例にしたが…


これは、非常にわかりやすい例だ。


計算は「できる/できない」がはっきりと見える。


教師も、その子が九九ができないというのは、恐らくすぐに把握できるだろう。

 

 


では、もう少し把握しにくい「力」だとしたら?


「読む力」「書く力」「発言力」「思考力」などなど…


これらは、どんな授業においても、いわば「当たり前」に子どもに求められる「力」だ。


例えば、「読む力」が顕著に弱い子がいたとする。


ここで言う「弱い」というのは…


・文章をすらすら読めない、たどたどしい
・読んでいたとしても、字面を追っているだけ
・漢字が読めない
・語彙力が弱く、言葉の意味を捉えられない


結果として、文の意味をまるっきり理解できないという状況がうまれる。

 

 


授業において「文章を読む」機会というのは、数え切れないほどある。


国語だけではない。


算数の問題文を読むのもそう、社会の本文を読むのもそう…


こういう「読む力」の出来/不出来というのは、「かけ算九九」と違って、なかなか見えてこない。


問題文や物語文などを読む時は、大抵が「一斉に」読む。


なかには、教師が読んで終わりということもある。


これでは、どの子が「読む力」が弱いというのは、把握しにくい。

 


また、いくら毎日の授業で読む機会があると言っても…


こんな方法では、その子の「読む力」は向上しない。


しかも、先にも述べたように、授業には「ノルマ」がある。


その子が読めなくても、授業は進んでいくのだ。


なかにはガンガンに読める子もいるわけだから、「読む力」が弱い子は、なんとなくで埋もれていく。

 

 


これは、あくまで一例に過ぎないが、こういったことが日々の授業の中で起きている。


「力」がない子は、「力」がつかないままに、毎日を過ごす。


その「力」に焦点を当てた授業というものは、なかなか出来ない。


なぜなら、授業には「ノルマ」があるから。


「力」がある子がいれば、授業は流れるのだ。

 

 

 


「発言力」のある子だけが発言をすれば、授業は流れる。


「書く力」のある子だけの意見を取り上げれれば、授業は流れる。


とっても極端な例で話を進めたけど…


こういうことが起きていると思う。

 

 


もちろん、45分で授業をきちっと終えることは大切だし、


単元を時間内できちっと指導しきることも大切だ。


けど、その見えないところで、「力」が弱い子は、いつまで経っても「力」が弱いままでいるのではないだろうか。


このあたりのことを、よく考えたい。